リーフレット 印刷への理解
シドニー・ワインバーグはニューヨークの代峨箱齢社表的投資会社ゴールドマン・サックスに勤務していた。
株価の大暴落の中、投資会社の株は、事業会社の株以上に下落した。
「一九二九年一○月二九日。
その日のことはよく覚えています。
私は一週間オフィスから家に帰りませんでした。
その夜何時頃までだったか忘れましたが、テープが走っていました。
最終報告を受け取ったのが一○時か二時ごろだったに違いありません。
まるで雷が落ちたようでした。
みんな呆然としていました。
何がどうなったのか誰にも分かりませんでした。
ウォール街ではみんな混乱していました。
彼らも普通の人と同じように何も分からなかったのです。
みんな何か発表があるだろうと思っていました。
偉い人たちが次々に何か言っていました。
ジョン・ロックフェラーがJ・P・モルガンのところの階段で、自分と息子たちは普通株を買っていると言ったと思います。
とたんに相場はまた下がりました。
プールが相場を支えようとしましたが、むだでした。
公衆は恐怖に駆られて売りました。
私にとって試練の時代でした。
私のところの投資会社は二○○ドル、三○○ドルと上がって行って、それからほとんどゼロのところまで下がりました。
他の投資会社もみんな同じです。
私は窓から飛び降りた人は知りません。
けれども、飛び降りようとした人は大勢知っています。
そういう人たちは、結局養護ホームとか精神病院とかそういうところへ行ったようです。
彼らは、相場を張っていたり金融をしていたりした人たちです。
彼らは金銭面だけでなく、肉体的にも破壊されてしまったのです」)。
結局、一九二九年の秋に起こったことは投機のバブルの破裂だったのだろう。
あ厳寒の季節とから考えてみれば、あれほどの株高がいつまでも続くはずはなかったと誰もが納得した。
しかし、資本市場の論理にしたがって、自分自身の重みでつぶれてしまった株式市場は、二月にはいると力強く回復し始めた。
暴落はほとんど一週間の間に起こっていたが、暴落の半分を取り一戻すそれからの回復過程は、三○年四月まで半年間続いた。
混乱から立ち直った人々は、再び株式市場への信頼を取り一戻そうとしていた。
しかしながら、「暗黒の木曜日」も「暗黒の火曜日」も、その後に訪れた株式市場の冬の季節に比べれば小春日和に過ぎなかった。
株価は三○年四月を一戻り天井に、どこまでもはてしなく下がっていった。
三○年の夏からは銀行危機が加わり、三一年からは国際通貨危機が重なった。
二三年には実体経済が最悪の状態となり、GNPは二九年ピークの半分の水準に落ち込み、労働者の四人に一人は失業者となった。
連銀の公定歩合は、二九年二月に五%、四・五%と下がってから、三○年中にはさらに五回引き下げられ、三一年の五月にパーティーに一・五%の低きに達した。
それでも株は下げ止まらなかった。
二九年九月一日にはニューョーク証券取引所上場株式の時価総額は八九六億六八二七万六八五四ドルだった。
二三年の七月一日にそれは一五六億三三四七万九五七七ドルとなった。
価値総額にして七四○億ドル、率にして二九年ピークの実に八二%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人あたりにして六一六ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ三倍の大きさだった。
いまだかって、かくも大規模なセキュリティー(証券U安全性)価値の消滅という事態は起こったことがなかったアーサー・ロバートソンのオフィスはニューヨークの高層ビルの中にある。
ジョンソン大統領、ヒュー、ハート・ハンフリー、ドワィト・アイゼンハワーなどの写真が飾られ、それぞれに「わが友アーサー・ロ曇ハートソンヘ」と署名が入っている。
彼は半世紀前のウォール街の混乱をくぐり抜け、成功した実業家なのである。
「一九二九年にはあそこは、いかさまさいころの使われたカジノでした。
二、三人の詐欺師が大勢の赤子の腕をひねり上げていました。
莫大な金をかけて無茶苦茶な取引をしていました。
一九一二年には不況がありました。
その不況は二四年頃までには終わっていました。
それからあの上昇、賭金制限無しの急騰です。
まるであの(二○年代にボストンで活躍し、その「帝国」の崩壊とともに多くの人を道連れにして、結局刑務所行きとなった相場師)ポンッィがアマチュアにみえるほどの狂乱相場でした。
私は、靴磨きの男の子たちが五○○ドルの手付金で五万ドルの株を買ってるところを見たことがあります。
すべてが希望だけで買われていたのです。
ああ、一九二九年一○月二九日ね。
全くの狂乱でした。
一七、八人の死にものぐるいの友達が電話をかけてきました。
どの話にも、彼らが証券業者に払う金を貸してやるべき理由はありませんでした。
明日は彼らは昨日よりもっとひどくなるのが目に見えていました。
もちろん、右の自殺も左の自殺も恐ろしくこたえました。
私の知っている人たちです。
胸のつぶれる思いでした。
ある日株価が一○○ドルしていると思うと、次の日には二○ドルか一五ドルですよ。
銀行はコール・マネーに一八%も取っていました。
おそらく一’二%の配当しか払っていない株をそのコール・マネーで買うのです。
みんな株は上がり続けると計算していました。
みんなその見通しで借金をするのです。
私は私のところに借りに来るブローカーたちから一三%ももらっていました。
ちよい貸しの金に二二%ですよ!私にはジョン・ハーッという親友がいました。
ある時期彼は、イエロー・キャブ株の九○%を持っていました。
チェッカー・キャブも持っていました。
シカゴのサーフェス・ライン・バスも持っていました。
彼の財産は四億ドルから五億ドルと言われていました。
ある日彼は私をヨットに誘ってくれました。
そこで私は身のすくむような大物二人に会いました。
デュラント(GMの設立者ウィリアム・デュラント。
一九二○年にデュポンとラスコブにGMを追われてからは、株式投機に専念するジェシー・リヴァモア(場外専門のブローカーから「投機家の王者」となった相場師)です。
私たちは彼らの財産について話しました。
リヴァモアが「私はIBMとフィリップ・モリスを支配できると思うだけの株を持っている」と言ったので、私は聞きました。
「だったら、何も他の声}とにはかかわる必要はないでしょう」。
彼は「私に分かるのは株だけだ。
私は事業のことは分からない」と答えました。
そこで私は尋ねました。
「あなたのような人は、一○○○万ドルぐらい誰にも触れられないところに隠しておくものですか」。
彼は私の目を見て答えました。
「お若いの、大金を握れないなら、一○○○万ぐらい持っていても何の役に立つかね」。
一九三四年、リヴァモアが二度続けて破産した後で、うちの経理の者がリヴァモアを助けるかと聞いてきました。
彼は破産していましたが、市場にカムバックしたがっていました。
彼はいつでもカムバックし、みんなに利子をきちんと払いました。
私は彼を援助することにして四○万ドル出しました。
一九三九年までに彼と私は十分儲けて、一人当り二二○万ドルの税引き後利益を手にすることができました。
その頃ジェシーはもう六○代の後半でした。
「もう現金にしておいた方が賢くありませんか」と私は彼に言いました。
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